「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破」におけるアスカ(式波・アスカ・ラングレー)の加地リョウジに対する変化についての考察。
皆さんはエヴァ好きですよね。前作、Qの公開から5年近く経って新作はいつ公開されるのか気になっているファンも多いと思いますが、改めて「序」から見直しています。
いゃ改めてエヴァって目作ですよねっ!
テレビ番から比べると映像のクオリティは本当にすごいですし、「破」からはテレビ版とは違うオリジナルストーリーという展開は凄いです。
謎はいっぱいあると思います。真希波・マリって誰だとか(漫画版のラストには謎を解く意味深な伏線がありますが・・)でも僕が一番思った事は、アスカの変化です。
・名前が式波へ・・。
テレビ版のアスカと劇場版のアスカは勿論、「惣流・アスカ・ラングレー」から「式波・アスカ・ラングレー」と名前そのものが変わった事も大きいわけでいすが、それ以上に「加地リョウジ」に対する変化が大きかったです。
・加地リョウジと葛城ミサトに嫉妬するテレビ版のアスカ。
テレビ版のアスカってどちらか言えば加地さんに対する思いが強いわけです。元恋人である葛城ミサトに対してライバル心を抱く。印象的なシーンで、加地の前で制服を脱ぎ下着姿で自分の事をアピールするシーン。それに対して加地はまだ子供だから、という目線でアスカを見るわけです。恋愛対象ではないと・・。加地さん、加地さんと寄り添うシーンは印象的です。
・新劇場版におけるアスカの変化について。
対して、新劇場版のアスカは加地に対して非常にドライです。ひどい言い方すれば、殆ど絡みが無い。自分の事をアピールする事もなけれど、ミサトに嫉妬する事も無い。ミサトの家に来て、部屋で1人で人形相手にしゃべるシーン。勿論、テレビ版のアスカの行動も孤独への裏返しなのかもしれませんが、劇場版はより孤独です。学校のお昼休みに1人で弁当を食べるシーンとか、シンジの事を「バカシンジ」と呼ぶ一方で、周りに満たされたシンジに嫉妬する部分もある。
幼い頃の母親の思い出、それはテレビ版と共通・・。
でも、物語が進む事によってリアルな一面を現していく。物語後半のエヴァ3号機に乗り込む前の「私って笑えるんだ」という言葉は、それを現しているような気がします。
・より人間っぽくなった一面を持つ劇場版のアスカ。
テレビ版の加地に寄り添う事で、足りないもの補っていたいた。対して、劇場版では孤独を感じながらも、周囲に溶け込む姿勢を見せている。自分への過去をトラウマとして封印し忘れるために加地という人間に寄り添っていた。対して、劇場版では加地に依存せず周囲に溶け込みながら、より人間っぽくなった一面を見せる。これがテレビ版と劇場版のアスカの違いだと僕は感じました。違ってたら申し訳ないですが、僕はそう感じました。